飛騨の細道 2 - 「耳でふるさとを探す。」


■耳でふるさとを探す。

東京を一周する山の手線で驚くような体験をしたことがある。
郷里の同級生と会うために東京駅で待ち合わせをしたあと、
品川方面へ向かう電車に乗っていたときのことだ。

乗降口のドア付近に立ち、東京ことばで話していたふたりだったが、
しだいに「そしてなぁ」「そうなんやさなぁ」なとど、ことばの語尾に「なぁ」をつけだした。

早口な東京ことばとくらべると、飛騨ことばは悠長でのんびりしている。
さらにことばに抑揚がつき、ゆっくと話すから情感もある。
ふたりが発する飛騨ことばを耳にした乗客は、
ぼくたちがどこか浮世ばなれした国からきたように思えたのか、
不思議そうな顔でチラッチラッと見ていた。

そのときである。「おいっ!」と言う声がうしろから聞こえた。
それと同時にふたりは肩を強く揺さぶられたのである。
驚いて振り返ると、なんと同級生が立っていたのだ。

「飛騨弁が聞こえきたもんで、見たらオメェたちやったんやさー」

三人はこの奇蹟に手を取り合って喜んだ。
ぼくたちが同一時間に電車に乗り、同じ車両に居合わせたのも凄いが、
雑踏のなかでかれの耳がふるさとのことばを聞き分けたのも凄いと思った。

「ふるさとの訛りなつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」
という石川啄木の短歌がある。
集まりくる人の中にまじって聞こえたお国訛りをとおし、
ふるさとを慕う熱い思いが伝わってくる歌だ。
これを詠んで、僕はハタと考えた。

鮭は生まれた川を匂いで探すというが、人は耳でふるさとを探しているのでないかと。

そんなわけでみなさんも、飛騨ことばがのうなって、
遡上ができん鮭みたいになるとこわいでいな、ほうず使ってくれんさいよ。