飛騨の細道 32 - 「自分であるための証明」


■自分であるための証明

玄関先にかかる名札を見て「あれは何か?」
と旅の人にたずねられたことがある。
それは木っぱのような小さな板に筆文字で○○高等学校、
さらに続けて通学している学生の名前が書かれたものだった。

名札の真意を探られても返答のしようすがない僕は、
苦しまぎれに「飛騨の風習です」としか答えられなかった。
いまのように人を疑ってかかるような暮らしではなかったので、
プライバシーをどうのこうのいう人はいなかったのだろう。

それから三十年がたち、玄関先からは名札はおろか、
家主の表札までもが消え去ってしまった。
(郊外に建ち並ぶ新築の家には表札のない家が増え、ドアは固く閉ざされている)
かと思えば町なかでは真っ昼間から玄関があき、居間がまる見えという
不用心な家もあるが、往々にしてこういう家には表札がかかっているのだ。

ところで、個人の基本情報というと氏名・生年月日・住所・性別の四つを
いうそうだが、銀行などで口座をひらいたり、
携帯電話を購入したりするときには免許証などが必要になる。
表札に関していえば基本情報は名前だけなのだが、
安心して暮らすためにあえて表札を付けないという自衛手段もあるのだろう。

外国には『アイデンティティー』という言葉がある。
和訳すると「自分が自分であるための証明」というような意味なのだが、
表札はまさに「家が家族であるための証明」ではないだろうか。

職場では部署・役職・氏名という証明カードを首から下げて仕事をし、
終ると表札のない家へ帰る。
どこか矛盾した生き方がふつうになってしまっている現代社会は、
なんとも変なものだ。