飛騨の細道 56-「目出度さも中くらいなり」


■目出度さも中くらいなり
 
町の中のある一角がきれいに整地されていて、
元はどんな建物が建っていたか思い出せないことがある。

その店の前を幾度か通ってはみたのだが、
はて?何屋さんだったのだろうか。
気にはなっても、何かを買いに入ったことがなかった店なのか、
記憶がさだかではないのだ。

それにしても人の記憶というのは冷淡なもので、
何日か前までそこにあったものが神隠しのように消えてしまっても、
取り上げて大騒ぎすることはない。
それどころか、ひと月もしてその一角に新しい店が建てば、
なんの不思議もなく僕たちの曖昧な記憶の中にすり込まれてしまう。
それが近年になって目にする、町という風景なのだ。

じゃ以前の町はどうだったのか?と聞かれたら、
「昨日あったものが今日も同じ姿でそこにある」というような
何の変哲もないありふれた平凡さである。
  
平凡から確かな何かが生れるわけではないのだが、
ありふれた町は住む人にも旅人にもどこかやさしい。
「目出度さも中くらいなりおらが春」とは小林一茶の名句だが、
文政2年のこの新春は、老齢にしてはじめて授かった子どもと共に迎える
一茶生涯最上の正月だったのである。

それを百も承知、人の世は上を見ても下を見ても限りがない。
中くらいの目出度さこそ至福の境とするところが、
一茶の人生哲学である。
 
それに見習えば非凡さに抜きん出るために躍起になるより、
平凡に一日を終え、平凡に家族と語り、平凡な夜に一杯いただく。
そんな中くらいの町が、じつは誰もが望む桃源郷だったりするのだ。