飛騨の細道 75-「町の景観、そこに生きる人間の諸相」


■町の景観、そこに生きる人間の諸相

浅井慎平や篠山紀信、アラーキなど、
著名な作家たちと同じ時代を歩んできた、
写真家が昨年、冬にこの世を去った。

その写真家とは50年前、
生まれ故郷の高山をあとにした稲越功一である。

彼はニューヨークやパリのかたすみ。
季節の悲しい移り変わりや、花咲く樹。
そして愛の葛藤や暮れゆく異国のため息を、
独特のセンスや美意識で切り取ってみせてくれた。

晩年は中国や奥の細道を撮り続けたが、
いずれの写真にも、彼の血脈のなかにもっている
言葉を超えた解釈に、飛騨が見えかくれしていた。

それは生前、高山在住の写真家、田中一郎(故人)に
ついてインタビューをおこなった彼のコメントからも
伺うことができる。

稲越:HNKの『課外授業』で子どもたちと高山の風景について学びあったのだが、
高山の子どもたちはある意味『高山にしかない人や風景』に育まれて
育っているわけで、それが高山特有の歴史観にも繋がる。
岐阜の鵜飼いなど、探せば一部に似たような風土はあっても、
この五冊の写真集のように『継続して繋げてゆけるか』となると難しい。

高山も例外なく古い建物が取り壊され、
新しい風景が出現するといった近代化への道を歩みながら今日に至っている。
しかし、高山に限っていえば、その変化は緩やかで、
場が持つオーラーは未だ輝いてはいるが、
ひとつ間違えれば、あっというまに失ってしまう。

時代を超えた日本人の慈しみ。
稲越功一の写真はそれを教えてくれた。