■飛騨の匠/その2
遺構から想像すると主要堂塔を備え、金堂の東に塔を配し、
中門・金堂・講堂が直線上に並ぶ伽藍配置は他に例はなく、
屋根が檜皮葺であったことも杉崎廃寺の特徴といえる。
金堂や講堂・鐘楼の礎石は創建当時の位置を保ち、
伽藍全体の遺構がよく残されているが
伽藍中枢部の前面に敷き詰められた玉石敷は、
全国でも初めての発見であり、
その荘厳さは飛鳥の宮殿遺構を彷彿させるものである。
また、日本最古の仏像といわれる飛鳥大仏、
釈迦如来像(606年)を作ったのが
飛騨市河合町生れの止利仏師(鞍作鳥)で
法隆寺の釈迦三尊像の光背銘には、
「司馬鞍首止利仏師」と明確に刻まれている。
このような視点から考察すると飛騨人は
高度なテクノロジ−を持っていたのは間違いないのだが、
飛騨人自らが身に付けたのか、それとも誰かが飛騨人に教えたのだろうか?
それを突き詰めてゆくと『両面宿儺』なるものに辿り着く。
つまり、両面宿儺なる妖怪の正体は渡来人(朝鮮)であり、
富山湾より神通川を舟で登り飛騨へ訪れ、
飛騨人に高度な建築技術や木工技術を伝授したわけだ。
朝廷はこの渡来人が持つテクノロジ−の比喩として
「顔が二つに手足が四つ」さらには「手には弓矢、剣を持つ」などと言い伝え、
朝廷と同等、もしくはそれ以上の技術を持った技能集団に畏れをなすあまり
「武将によりこの妖怪を退治した」と記したのではないだろうか。
話しはかなり夢物語りへと発展したが、
日本の歴史の中には数え切れないほどの匠がいる。
それらの「匠の心」は現代の日本の匠たちにも脈々と受け継がれているが、
その心の在り方の基本は飛騨の匠にあると言っても過言ではない。
写真/当時の伽藍配置の復元図