■風景の発見
向こうの丘からなにやら怪しいものが、
ひょいひょいとやってくる。
「うん?なんだ、なんだ」。
動くものに興味をしめしても
その後ろにある広大な風景を見て、
動物は「あ〜いいなぁ」というような感慨はいだかない。
つまり、生きものには風景という概念はないのだ。
唯一、霊長類だけが風景に感動できると言いたいが、
昔はそうではなかった。
紀元前からおよそ2500年のあいだ、
ヨーロッパではめんめんと旅行記がつづられてきたが、
旅路の風景がえがかれるようになったのは、
ここ250年たらずにすぎないというのだ。
つまり250年前人間社会の中に、
「風景の発見」という大事件がおきたのだ。
それまでは恐怖や嫌悪の対象でしかなかった
アルプスの山々を美しいと感じ、
個人の内面性と結びついた風景として描き出したのが、
「風景の発見」のはじまり。
風景という概念をもたなかった古代人、
風景という概念を知った近代人。
18世紀を境に人間は大きく変わる。
えっ?じゃ北斎の描いた富士山はどうなんだ?
さかのぼって雪舟の描いたのは風景じゃないのか?
といぶかる人がいるだろう。
ここでいう風景とは、風光明媚な様式化されたものではなく、
当たり前のもの。
たとえば農村の田園風景が、
そこに働く農民にとって風景として
意識されていないのに、外部からやってきたものには
美しい風景として特別に見られることに近い。
おりしも飛騨市山之村では、
一年でいちばん寒いこれからの時期に、
寒干し大根の仕込みがはじまる。
家や物置の軒下にそろばん玉のような大根を
何重にもぶら下げるのだ。
真っ白な大根に粉雪が舞うのを見つけ、
「あっ、美しいがあそこに…」。
はたまた薄暗い横丁から聞こえる三味線の音に、
「あの奥に粋が見えるよ〜」なんてことを、
いたく感じ入るわけだ。
これもすべて「風景の発見」という大事件があればこそである。
ところでこの大事件に、私はどこで巻き込まれたのだろうか。
写真/こんなところで耳にする三味線。風景が際立っている?